
2015年10月12日、プリンストン大学教授のアンガス・ディートンがアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞(以下、ノーベル経済学賞と表記)を受賞した。ディートン教授の経済学への貢献の一つにミクロ計量分析の手法を開発経済学に持ち込んだ点があることより、開発経済学を専門としている私(樋口裕城)より、ディートン教授について少し考察を加えたいと思う。
ノーベル経済学賞の選考委員会によると、ディートン教授の授賞理由は「Consumption, Poverty and Welfare」となっている。消費・貧困・厚生に関連する研究において、経済理論と実証分析とを結びつけ、ミクロな分析とマクロな分析とを統計手法によりうまく関連づけた点が評価された。
ディートン教授の膨大な研究成果に基づき、2013年には一般向けの書籍が英語で出版され、翌2014年には『大脱出(みすず書房)』というタイトルで翻訳された。この本では250年前から現在までの世界の貧困からの大脱出の歴史が記述され、その過程で貧困から脱出できた国とそうでない国の間の格差が生じたメカニズムについての丁寧な議論がなされている。ディートン教授の今回の受賞は、トマ・ピケティ教授の『21世紀の資本(みすず書房)』がブームとなったことに表れているように、格差・不平等への対応という課題の重要性が増してきていることと無関係ではなかろう。
なぜ貧しい国が貧しいままなのかを考える開発経済学では、ランダム化比較対照実験(RCT)と呼ばれる手法が市民権を得て、現在ではRCTを用いた数多くの研究が行われている。RCTとは医療における治験の考え方に基づいており、例えば、ある銀行の預金者を、利子を一定期間二倍にするグループとそうでないグループとにランダムに振りわける、といった実験的な介入を行う。介入後に2つのグループを比較することで、預金利子を二倍にするという介入(プログラム)がどれだけ預金者の預金を増やすことになったか、増えた預金が生活水準の向上につながったか、といったことを測定するという方法である。
しかし、ディートン教授はRCT偏重の開発経済学に警鐘を鳴らす。開発経済学においてRCTの手法を有名にしたのはマサチューセッツ工科大学のエスター・デュフロー教授であるが、彼女を引用しながらディートン教授は、経済理論のないRCTだけで開発経済学が進歩することはない(2010, Journal of Economic Literature)と手厳しい。
確かにRCTが開発経済学の発展に貢献したことは疑いようがないと私は思うが、同時にディートン教授の指摘はもっともであるとも思う。貧しい国の発展のために、どういった部分的な介入が効果的であるかという、いわば「木」をみる研究が重要であることは論を待たないが、それだけではなく、経済理論に基づいて途上国の人々の行動メカニズムをそのもの理解するという、「森」をみるような研究も忘れてはならない。事実、ディートン教授は世界銀行と協働し途上国におけるミクロデータを整備し、経済理論と実証研究を結びつけることで、人々の消費・貯蓄行動のメカニズムに関する多くの重要な発見をした。なお、ディートン教授による家計データ分析についての教科書である『The Analysis of Household Surveys』(1997年)は、現在世界銀行のホームページで無料公開されており、統計処理ソフトであるSTATAのコマンドも紹介されているため、開発経済学を専門とする大学院生には必読書となろう。
今回のディートン教授のノーベル経済学賞受賞につけ、特に私のような若手研究者は流行にのってRCTを用いた研究をするばかりではなく、ミクロデータの分析により地道に「森」を解明していくような研究にも注力すべきだと、あらためて認識させられた。