新しい年が始まったばかりではありますが、今回のコラムでは100年ほど時をさかのぼってみましょう。100年前、すなわち1919年の世界では、何が起きていたのでしょうか。
1919年1月、パリ講和会議が開催されました。この会議は、第一次世界大戦(1914年開戦〜1918年終戦)の戦勝国であった連合国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど)と、敗戦国ドイツとの間で、どのような条件で講和を結ぶかを話し合うものでした。パリ講和会議の結果締結された講和条約がヴェルサイユ条約です。第一次世界大戦後のヨーロッパ国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれますが、ヴェルサイユ条約はこの体制における重要な支柱となりました。
この条約でドイツは、領土の割譲、海外植民地の喪失、軍備縮小、多額の賠償金の支払いなど、非常に厳しい条件を受け入れざるを得なかったのですが、ドイツでは条約について激しい抵抗がありました。また、ヴェルサイユ条約はイギリスとフランスを中心に執行されましたが、この両国の間ではドイツに対する姿勢について大きな相違が見られました。イギリスは、ヨーロッパに「調和」をもたらすためにはドイツとの和解が鍵になるためドイツの国内情勢に配慮すべきであると考えていましたが、フランスは対ドイツ安全保障を重視し、必要ならば軍事行動を起こしてでも条約を執行するという強硬な姿勢でした。ただし、ヨーロッパに「調和」をもたらすというイギリスの狙いには、ヨーロッパ情勢に煩わされることなく、自国の通商と植民地経営に専念したいという意図もあったと言われています(大久保明「イギリス外交とヴェルサイユ条約-条約執行をめぐる英仏対立、一九一九~一九二〇年」『法學政治學論究:法律・政治・社会』Vol.94, pp.127-157、2012年)。
またヴェルサイユ条約には、ヨーロッパ経済の動向に大きく関わる条項も含まれていました。そのひとつが石炭に関する条項です。ドイツには、ルール地方やザール地方などに大炭田が存在し、これらはドイツ工業の中心地でした。19世紀後半からドイツにおいて重工業化が進展し、鉄鋼業・化学工業・電気関連工業が大きく発展しましたが、これらの発展を支えていた重要な資源が、国内で豊富に産出される石炭だったのです。
しかしヴェルサイユ条約において、ザール地方における炭鉱の所有権および独占的採掘権をフランスに譲渡すること、それに加えて、戦争によってフランス北部の炭田が被ったとされる推定石炭損失量をドイツが償うこと、さらに現物支払いによる賠償の一部として、決められた年間、石炭あるいはそれに相当する量のコークスをドイツがフランス、ベルギー、イタリア、ルクセンブルクに供給することが決められました。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、著作『平和の経済的帰結』において、領土の喪失や鉄道・工業の能率低下という状況を鑑みると、第一次世界大戦前と同じように工業国として存続し続けるためにはドイツの石炭輸出は不可能になる、あるいはもし強制的に石炭輸出を実行するならばそれはドイツの国内産業の犠牲の上になされることになるとして、これらの条項が現実性を持たず将来への危険性を孕むものであると批判しています。実際に、ドイツは約定通りに石炭を供給することができず、このことが条約執行をめぐってまたイギリスとフランスとの対立を深めていくことになりました。ケインズはまた、このドイツからの石炭供給に関する条項が、これまでドイツからの石炭輸出に依存していたドイツ近隣諸国の工業にとって深刻な石炭供給不足を招くかもしれないと懸念しています(J. M. ケインズ著、早坂忠訳『ケインズ全集第2巻 平和の経済的帰結』、東洋経済新報社、1977年)。
その後、ファシズムの台頭や世界恐慌の始まりを契機としたブロック経済形成の進展といった世界情勢のなかで、ヴェルサイユ体制は崩壊し、1939年には第二次世界大戦が勃発しました。ヨーロッパが、現在のEUにいたる統合に向けて本格的に動き始めるのは、第二次世界大戦後のことになります。
100年前のヨーロッパにおいて、第一次世界大戦という大惨事を経て、各国の利害や思惑が交錯しながらヨーロッパ再編が模索されていました。そして100年経った今年2019年には、イギリスのEU離脱が予定されており、ヨーロッパはまた新たな転換期を迎えているといえるでしょう。これからのヨーロッパがどのような道を歩むのか、注目したいと思います。
(文責:木谷名都子)