濱口泰代先生が2017年ノーベル経済学賞解説文「ナッジ:ロボットでなく、人間だからこその工夫」を寄稿しました

Pocket

ナッジ:ロボットでなく,人間だからこその工夫

 2017年度のノーベル経済学賞は,シカゴ大学のリチャード・セイラーが単独で受賞した.彼は,行動経済学のパイオニアとして,常に合理的な判断をするとは限らない“人間”の経済活動に焦点をあてて研究をしてきた.彼の研究は,人々がより良い生活をするために,政府がナッジ(nudge)と呼ばれる方法で介入をすることが非常に有益であることを,データに基づいた研究によって実証的に明らかにしている.

 ナッジとは,人を軽くつついてより良い行動を促す行為のことである.例えば,電車が終点についているのに横の人が寝ていたら,やさしくつついてあげて起きるように促すような行為のことである.決して,「起きろ」と命令しているわけではなく,起きないという選択肢を排除することなく,より良い選択を行うように促すことがナッジである.セイラーは,多様な価値観を持つ人々の選択肢の幅を狭めることなく,より良い選択を人々が行うように促す政策を提唱しており,そのような考え方はリバタリアン・パターナリズム(自由意志主義×家父長主義)といわれる.

 リバタリアン・パターナリズムの有名な例は,老後の生活資金を準備するために貯蓄プランに加入するよう人々を促すことである.多くの先進国では高齢化と少子化が進んでいるため,政府が提供する年金制度だけでは,人々の老後の生活を十分支えることはできない.日本の場合は,ずさんな年金記録問題も重なって,人々は自力で老後の資金準備をする必要がある.しかし,年金と実際に必要な生活資金の差額を準備するために,今から毎月どれだけを貯蓄して,どれだけを投資に回すかなどを判断するのは,経済学者であっても難しい.老後にいくら必要かに関する意見が様々であるし,そもそもいつでも出金できる預金口座に毎月貯金するのは誘惑が大きすぎる.よって,民間の個人年金保険に加入するなどして自動的に老後資金が積み立てられるようにすることが望ましい.

 しかし,商品の種類が多すぎてどれに入ればわからないなどの問題があるため,加入に至らないケースも多いだろう.結局のところ,加入したほうがいいことが分かっているなら,加入の先延ばしが起こらないように促すほうがよい.一つの案は,すべての人々が働き始めてすぐに何らかの貯蓄プランに自動加入するのをデフォルトにすることである.ただし,脱退の自由は制限されない.行動経済学の研究で,自動加入をデフォルトにした場合に,脱退する人はほとんどいないことが明らかになっている.つまり,ほとんどの人々が自動加入方式によって貯蓄できていることに満足しているのである.

 私たちはやるべきことを常に優先できる性能のいいロボットではないので,このようなナッジによって恩恵を受ける人は多いだろう.ちょっとした日々の自制心の欠如のせいで,多くの人が将来経済的困難に陥るとしたら,国として何もしないことは,ほとんど非倫理的にさえ思える.もし,政府が早めに介入することによって,このような不幸な事態を招くのを未然に防ぐことができるなら,経済厚生も大きく改善するだろう.

 経済学は,主として金銭的利得を最大化する人間を対象にしており,そのような人間(ホモ・エコノミカス)は常に合理的な選択をする.しかし,多くの人々は,ホモ・エコノミカスではなく,自制心が完璧には機能しないホモ・サピエンスである.ホモ・エコノミカスを基準に作られた理論モデルが重要でないということではない.理論モデルがあることによって,そのモデルから外れる行動がシステマティックであるかどうかを検証することができるし,またその原因を深く考えることができる.ただ経済学は長らく,人間の心と経済活動の関係にあまり興味を持ってこなかった.一方で,心理学は,人間の行動を丁寧に観察してきたので,多くの説得力のある仮説を提供してきた.心理学を経済学に導入する試みはセイラー以前にも多くの研究者が行っており,2002年度にノーベル経済学賞を受賞した心理学者であるダニエル・カーネマンの功績が大きいが,セイラーは,カーネマンらの実験室における研究を,政策提言のレベルにまで引き上げ,経済学を“使える”学問にしたといえる.

 彼がパイオニアとして導いてきた行動経済学の影響力は経済学だけに留まらず,医学の分野にも及んでいる.患者が病気の回復のために努力を怠るような行動をとった時に,単に意志が弱いといった“根性論”で片付けるのではなく,行動経済学的に,患者の行動を深く理解し,医師がどのようにナッジすることが有効かについての医学研究も進んでいる.

 人々が,自己責任という言葉で,人生の誤りに断罪を下されるのではなく,選択の自由を保障されながらやさしくナッジされることによって,人生の舵を大きく誤らないようにできれば,人々は自尊心を持って幸せに生きていける.経済学がこのような社会の構築に役に立つなら,本当にやりがいのある社会科学であると思う.

文責:濱口泰代・広報委員会